平安室町時代のこの一帯から諫早にかけては、伊佐波也之荘と呼ばれ、
豊後国の宇佐八幡宮の荘園であった。
八幡大神の御分霊が祀られていた八幡神社は、永く古賀の精神文化の支柱として、地域住民の安穏・発展が祈り継がれてきた。
戦国時代の当地は、島原の有馬氏の支配下に有り、島原藩主でキリシタン大名であった有馬晴信が治めていた。その頃各地でキリスト教の影響力が強まり、古賀村では、八幡神社、正念寺、地大寺、長生寺等が破壊された。1612年に禁教令が発せられ、島原の乱平定後の古賀村は徳川幕府直轄の天領となる。
1626年(寛永3年)に開基(建築が始まり)して、2年がかりで造られた由緒ある神社で、大分県の宇佐神宮の流れをくみ、応神天皇を主体としたものである。
キリシタン弾圧の後、この古賀の領地は島原の松倉公の領地となり、キリシタン弾圧の成功により八幡神社が寄贈された経緯がある。八幡神社の御祭神は、誉田別命(ほんだわけのみこと・応神天皇)、足仲彦命(たらしなかつひこのみこと・仲皇)、息長帯比賣命(おきながたらしひめのみこと・神功皇后)の御三柱である。この神社は、もと葉山・権現の二つの社と天満宮毘沙門社などを末社とし、長い間茂木村・日見村の天満宮と一緒にどのお社も我が村の氏神様として祭られていた。
御神徳は、五穀豊穣、家内安全、安産の守り神、健康長寿、夫婦和合である。
例大祭は、1月1日元旦の歳旦祭、3月29日の祈念祭(春祭り)、10月29日の例祭(古賀くんち)、11月29日の新嘗祭が行われている。
古賀村の氏神様となり明治7年からは今のように古賀村でお祭りするようになった。
毎年9月29日が祭日であったが明治30年から新暦10月29日と決められた。昭和4年に村民の願いが叶い村社に昇格され祭日には村長が供進使(ごしんし)として参拝するようになった。(古賀郷土読本)
八幡神社の左側畑地に地大寺の跡がある。
1637年(寛永14年)松倉公が滅び、その後松平公になり分かれて古賀が天領となった。
その時の庄屋の跡である。庭には五輪塔があり、田中邸の倉庫には庄屋瓦や福瑞寺の名前が入ったとっくりが置かれていた。
ここも地大寺と同様、そのキリシタン当主に破壊される。五輪塔の破片が残っており、地輪であり、その上に風輪があり空輪がある。これらは雨に濡れると緑色に変わる緑泥岩で、一部には砂岩を使った五輪塔もある。古賀では算出しないが質としては最高の緑泥岩で野母半島に産出する。これは1400年代の貴重な遺物である。
この辺の地下一帯に五輪塔の破片が埋もれている可能性もある。五輪塔等は、
地輪、水輪、火輪、風輪、空輪で死者の
供養と墓石であり、武士によって造られたものである。
子安観音は、国道34号線から肥前古賀駅に入る道路の松鶴橋辺りの一段高い場所に祀られている。この子安観音は、古賀村の人が信仰していた「聖母マリア」である。古賀村は、1570年頃キリスト教の信徒の村として栄え、1600年頃には教会やセミナリオが5箇所に建てられていた。
その後徳川幕府となり松倉豊後守が島原を支配し古賀村もその支配下におかれることになる。キリシタン弾圧と教会の打ち壊しが増えてきた。
1626年古賀村に神社仏閣の再興が始まり八幡神社と福瑞寺が建立された。
キリシタン禁制の頃、古賀村の住人は自分の信仰を捨てきれず、信者であることを守ろうとした。そのため江戸時代初期に子安観音を建て信仰していたようである。松原の奥地にガネの観音というところに祠を建て、マリア様の代わりに子安観音を祀り、自然石に十字架を彫り隠れキリシタンとして守ってきた。
その後、大暴風雨が襲い古賀村は被害を受ける。その時の山津波で子安観音の自然石も流され、下流の川底で発見される。信仰の厚いキリシタンは「聖母マリア」が民家近くに出たいと考え、流れ着いた十字架のない自然石を移し守ることにした。それがいつの間にか現在地に祀られるようになったらしい。
1689年(元禄2年)の中国浙江省から移植された樹齢600年の槇ノ木である。古賀植木のシンボル的な存在で木の格好が大変良く、日本でも一番古いといわれる貴重な槇ノ木である。高さ10m、枝幅12m、幹周り4mに及ぶ巨木である。枝と葉が剪定されている自然と人工の芸術美である。
国道34号線から松原町の迎仙閣の方へ昇る道の曲がり角の上にある。この曲がり角を左折すると間の瀬に通じる道である。
算用庵は、長正寺(向里)、地大寺(向里)、正念寺(正念)、慶尚庵(向里)等の寺と同時代の1470年頃に建立されたものである。
古賀村は西郷石見守尚善氏に庇護されていた。この西郷氏は熱心な仏教徒であり、仏寺は非常に栄えていたが1570年頃にキリスト教の信者によって焼き払われてしまい、建物は残っていない。
植木の里として、九州最古といわれ400年の歴史をもつ長崎市古賀地区に昭和21年に建築され、その庭園風景は遠方の行仙嶽(456m)を借景として造られた。
もみじの新緑と紅葉、5月の平戸ツツジが美しく、造形的にも評価の高い庭園である。ここの座敷から景色を詠った吉井勇歌碑、芒塚の保存の必要性を詠んだ高浜虚子句碑がある。
現在は個人の所有であるが、11月には短期間だが開放され、見学することが出来る。
長崎街道の古賀町と矢上町の領境界石の近くに「役行者」の祠がある。役行者は奈良時代(8世紀)の修験者であり、役の小角(えんのおづね)という。小角葛白山下で荒行を積み、また吉野の金峰山で霊感を修得、呪術を身につけた修験者であり、山伏の先祖といえる。山岳信仰が盛んになると修験者の祖師として信仰されるようになった。
八郎川の下流に向かって左側にあり、この標柱は「従是南佐嘉領」と書いてある。旧古賀道を通って福瑞寺より矢上方向へ約1kmの場所にある。この標柱辺りに楠木川があったといわれるが定かではない。
八郎川の中間の西寄りの方に拷問を受けた場所があったと思われる。古賀の殉教地とされる場所が現在ある毘沙門天の裏付近(札元)である。その場所は川の氾濫によりその後河川改修され、はっきりした場所は判らない。1612年、幕府から禁教令が出され古賀でも12名がその犠牲となった。
古賀では、1627年(寛永4年)フランシスコ大曲喜助とその妻エレネ養母アグネスの3人が斬首、寛永7年にミゲルという青年が孫助らとともに3日3晩首までずっと地中に埋められた後、竹切り鋸で首を引かれて殉教した。
竹切り鋸で首を引くという残酷な処罰を長崎地方で行ったのは、松倉重政である。当時キリシタン弾圧を加えていた島原領主の松倉公は島原の乱(1637年)で滅んだ。
1570年、古賀はキリシタンの里となる。古賀に「かまぼこ型の墓石」はたくさんあったと思われるが、そのうち2基が現存しており、そのうち一つが八郎川の中間の道路にある。他の一つは福瑞寺にある。
「墓石」の長さは1m50cmくらいであり、見方によっては只の長い石にしか見えないが、水路として使われていた経緯がある。八郎川水害時に流れ出して、川の中に放り込まれていた。それを引き上げて安置している。「花十字」は消えて判明しないが、両端に「花十字」が刻まれてあったと思われる。
※ 時代背景
1570年代は戦国時代で、織田信長が天下統一を目指していた。足利義昭を将軍に立て全国統一に乗り出したが、その後義昭と対立し1573年(天正元年)足利義昭を京都から追放し室町幕府が滅んだ。
信長は、比叡山延暦寺を全山焼き討ちにし、浄土真宗の教えを元に武装して抵抗する一向一揆とも激しい戦いをした。その反動か信長は仏教勢力を嫌い、他方でキリスト教の宣教師を優遇した。鉄砲の導入にも積極的で1575年、当時最強といわれた甲斐の武田氏の騎馬軍団を大量の鉄砲で撃ち破った(長篠の戦い)。
その翌年(1576年)、信長は琵琶湖湖畔の安土に安土城という壮大な城を築いた。楽市楽座の政策をとり城下の商工業者に自由な営業を認め、流通の妨げとなっていた各地の関所を廃止した。しかし、本能寺の変で明智光秀に背かれ天下統一は、秀吉に引き継がれた。
1583年(天正11年)、秀吉は大阪城の建造に着手し、朝廷から関白の位を得ることに成功して天皇から全国の統治を任され、1590年全国統一の事業は完成した。
秀吉は、1582年から各地の米の出来高を土地毎に調べさせる太閤検地を実施し、1588年には刀狩り令を発して、農民や寺院から刀や弓、鉄砲などの武器を没収した。この結果、社会の安全を保つのは大名をはじめ武士の役割とし、農民は耕作に専念することとなった。こうして身分の区別が定められた。
南蛮貿易を重視してキリスト教の布教を認めていた秀吉は、1587年突如として、バテレン禁止令を発してキリスト教を禁止する政策に転換した。(バテレンとはキリスト教の神父のこと。蛮天連とも書き、ポルトガル語のパードレ(神父)に由来する。)
秀吉は高山右近等のキリシタン大名が信仰によって結束し、統一の妨げになると考えたともいわれ、またフィリピンを拠点にしたスペインの宣教師達の間で、キリスト教を広めるため、南アメリカなどで行っていたのと同じように、中国や日本を武力で征服する計画があった。
秀吉のキリスト教への疑いはそれなりの根拠があった。但し秀吉は貿易による利益を重視し、南蛮商人の来航は認めたので、キリスト教の禁止は徹底しなかった。
13 福瑞寺の庭にあるかまぼこ形のキリシタン墓石であり、古賀地
区に残る唯一のものである。このキリシタン墓石の片端に「花十
字」が刻まれてあるのが見える。
そのそばには、1400年代、古賀を治めていた古閑入道のものと
思われる五輪塔の地輪3基が残っており、歴史を知る上で貴重な
文化財である。
長正寺と同じ年代と考えられるが、広さは2坪くらいの庵だったようだ。慶尚庵という名からすれば朝鮮半島の文化の影響だろう。古賀は当時有馬領でこの地方のキリシタンの中心で、長崎の本部に属する教会が慶尚庵近くにあったといわれる。
当時を偲ぶ建物として福瑞寺に「花十字」入りのかまぼこ形の墓石が一基現存している。その付近一帯にキリシタン墓地があったとされ、慶尚庵で井戸の水桶に使用されている。キリシタンの墓石も元は福瑞寺辺りにあったと思われる。
1400年代後半、この地位は有馬氏によって統治されていた。1570年になり、聖フランシスコ・ザビエル宣教師によってキリスト教が伝播された。その後古賀の古閑入道という城主が教会を開基した。この教会は権威があり、東長崎、諫早人たちもここまで礼拝に来ていたようだ。古賀にも信者が増えていた。
1616年、徳川幕府から松倉豊後守が派遣され、古賀は禁教令のもと、弾圧が加えられるようになり、焼き討ちに遭う。この時「かまぼこ形の墓石」は水路に用いられるなどして、紛失していったのではないか。現存しているのは2基だけというのは寂しい。
今から500年前、当時の古賀は諫早領(西郷)の支配地域であったが、1570年島原藩の有馬氏の領土となった。諫早藩当時、古賀は熱心な仏教信者の地であり、村内には5つの寺があった。しかし、島原藩になると一変して一村こぞってキリスト教の信者となり、村内の寺を焼き払ってしまった。その後徳川幕府が厳しいキリシタン弾圧を加え、古賀でも多くのキリシタンが処刑された。
その後、島原藩の松倉豊後守は古賀村に神社・寺の再興を命じた。1626年(寛永3年)に開基されたのが福瑞寺である。その功労によって寺を建立した僧将哲に寄贈したものである。この寺は浄土真宗である。寺を維持するため、村内の全ての老若男女より1年間に米1合5勺を寺に納めるよう命じた。この習慣が現在まで残っていて、今は米の代わりに現金が納められている。
※ 福瑞寺は、寛永3年に島原藩の松倉豊後の守重政が田結村の西明寺の正哲にキリスト教を禁じることを命じ、正哲の努力で後を絶った。
正哲は、重政から寺録を与えるといわれたが、無欲な正哲は「門徒さえあれば寺は維持できる」と寺録を断ったという。豊後の守は、これに感じ「古賀村は永久に一村一ヶ寺とし、又他村の人がこの村に住むとなれば必ず福瑞寺の
門徒とならねばならぬ」との掟を定めた。
歴代住職
初代 正哲 6代 俊峰 11代 上提
2代 宗俊 7代 僧範 12代 成章
3代 廓内 8代 説覚 13代 晁婉
4代 西純 9代 東渓 14代 玄成
5代 俊基 10代 玄縦
釣鐘堂は、1831年(天保2年)赤瀬勘助金重(松原名出身)の寄進により建立された。
上棟文
普放光山福瑞寺鐘楼再建上梁原楼四年前焉大風被吹頽齋従究抱再建三志征而未遂也
爰有崎鎮人赤瀬勘助金重者殊崇宗教専信念仏 擲財若干用為造建以
厳飾福瑞之精舎報恩仏祖之恩徳真是最勝希有人也現当二世之蒙益豈可
思議也 天保二歳次辛夘十二月吉祥
万年社(福瑞寺内)
【沿革】
田島倉治氏(木場名並松)は、心魂同一の教育を徹底させるには、仏法によることが最も良いと考え、仏法の盛んになることを願っていた。そのためには博学の教導職を得ることが望まれ、また遊学資金蓄積の要を認め、自らも資財を投ずるとともに広く応分の寄付を求め、1855年(明治18年)一社を創立し、万年社と名付ける。爾来創年2月中
法要を営み、その中から万年社基金を積み立てられ、今日に至っている法要施主は、万年社社長又何時の頃よりか万年社内入金として、門徒中に死亡者があった場合は必ず相応の寄付がなされ蓄積される。
(2000年の東長崎から引用)
山城に攻め込んで来た武将がこの寺蔵川で洗濯をしているお婆さんに尋ねた。「山城はまだ先か。」するとお婆さんは「まだずっと先ですよ」と言い、「今、昼間だから昼寝をしている時です」と答えたので、武将は攻め込んだものの防衛が固くて被害甚大となり退散した。 帰る際に道を尋ねたお婆さんがまだ洗濯をしていたので、腹いせにお婆さんの首をはねてしまった。するとその晩から亡霊が出没するようになり、地域の人たちはここに供養塔を建て大切に祀った。 これは戦国時代の出来事であるが、町の人たちは今でも御地蔵様を祀っている。
※ 横に立っている石碑は、『大乗妙典六十六部日本廻國』と記載
してある。六十六部とは、全国六十六カ国の霊場に大乗妙典(法華経)
を奉納するという名目で行われた巡礼、もしくは実践者のことで、近世、
日本廻国とも称され、巡礼者を六部とも略称されました
六十六部の起源は明らかでないが、鎌倉時代に始まるといわれている。
中世の六十六部縁起には、「源頼朝や北条時政など鎌倉幕府の有力者の前
世は六十六部である」と載せ、また、近世の史料にも「廻国修行すれば来世
大名に生まるヽ」とか、「必ず今度は歴々に生まれる」など、権力者へ
の転生が信じられていた。さらに近世には、それまで修行僧に限られていた
この巡礼に、庶民が加わった。全国巡礼や四国遍路には参詣すべき寺や一巡
するルートが定められているが、六十六部は六十六カ国全てを廻ることが重
視され、納経所やルートに厳格な定めはなく、巡礼者の自由な選択によって
納経された。度会郡内瀬村(現南伊勢町内瀬)の古谷助左衛門が寛保元年
(1741)から延享2年(1745)に亘って全国六十六カ国を巡礼し、納経
した3册の請取帳が子孫の家に伝来している。
378カ所の神社や寺院に納経した正味3年11カ月に及ぶ廻国の旅で、
その間、坂東・西国の観音霊場や四国霊場の他、各地の国分寺一宮に納経して
いる。当時、六十六部が国分寺や一宮を、諸国を代表する聖地・納経所と考え、
重視していたことが分かる。碑文に天保8年とあり、西暦1837年で大塩平
八郎の乱が起こった年である。
徳川家斉が隠居し、9月に徳川家慶が第12代将軍に就任した年である。
古賀人形の起こりは、文禄年間(1558年)、今から約440年前古賀の農民が土器類とともに人形を製造したのが始まりである。 説によると、京都の土器師の常陸介が古賀村の小川家の3代小三郎に土器の製法を伝えたという。小三郎は農業の片手間に土器製造を副業として、専ら神仏や儀式用の土器を造っていた。晩年になり小型の人形を造るようになったらしい。 小三郎の孫の喜左衛門は熊本に招かれて土器作りの方法を伝えたが帰国後肥後人形を模倣して古賀人形を造ったといわれる。 古賀人形は、1804年(文化)、1818年(文政)の頃、多種多様の作品が造られた。初期の作品は形が小さく色も黒と赤であり、後に黄色や紫が使われるようになった。花蘇芳(はなすほう)から赤色を、クチナシの花から黄色を、紫草から紫色を造り彩漁料としていた。 現在は、19代当主の小川健一氏が古賀人形を作成している。作り方は、形を造って2日間干して、亀の子たわしで粉を落とし、釜に入れ摂氏800度位で8時間位薪を入れて燃やし続ける。翌日釜から出す。その後、地染め(天気の良い時、白い粉と米をひいてつける)をする。家族で年間600~700個作成して焼き上げ、色づけまで数ヶ月かかる手間を要する仕事である。日本三大人形のひとつである。
江戸時代に大村藩士や旅人を始め、諸大名も長崎への行き帰りに古賀人形店に立ち寄り、道中の休息所として利用していたようである。
藤棚には数件の藁葺き屋根の人形屋があったが、結局小川家のみが今日まで続いており、長崎県指定の伝統工芸品店である。
昭和44年6月20日、国指定の重要文化財として登録された藁葺き屋根の家である。住所は長崎市中里町1478番地である。
我が国古来の農家の基本形の一つである。土間の作業部分と田の字型の居住部分に作られている。土間よりの部分は間仕切りを除いて一室にしており、県内で三間取りの平面を持つものでは、最古の遺構と考えられる。
建築年代は確実ではないが、旧本田家の菩提寺に残る過去帳によれば、1769年(明和6年)没の代右エ門の名前がある。旧本田家は少なくともこれ以前からこの地で農業を営んでいたと考えられる。
木割りが大きく、小屋は又首(さす)組み、棟束(むねつか)は立たない。かや葺き大屋根の葺き卸しに、錣(しころ)葺き(※兜の錣のように屋根の流れ面が途中で屋根勾配が1段下がり、全体として2段となっている屋根の葺き方。出典『建築大辞典』から)のひさしがすがり、これを「ももづき」葺きと呼ぶ。内部に竹簀の子の床がある。
間取りは座敷、納戸、囲炉裏、土間などがある。この建物も明和6年よりは少し古いものと考えられている。
芝原遺跡Bについては、いすゞ自動車新長崎支社の新築に伴い当課(文化財課が教委だったころに)が発掘調査をしています。
時期的には、旧石器・縄文・弥生・近世(江戸時代)の遺跡で、時期不詳の柱穴群、黒曜石の矢じり、縄文前期のものと推測される土器片、弥生時代の台付甕、江戸時代の染付碗、などが出土しています。
遺跡の性格について、報告書によると、弥生時代以前に関しては、調査個所が遺跡の中心部から外れているため確実なことは言えないながらも、八郎川流域の最奥部に点在する遺物散布地と同様の狩猟活動の場の一つと推測されています。
江戸時代に関しては、磁器碗が少量出土するだけで調理具等が出土しないことから、日常生活の場ではなく耕作地として利用されていた可能性が高いとのことです。
上中野遺跡・芝原遺跡Aについては、九州横断自動車道建設に伴い県教委が調査を行っているようです。
(文章改訂中)