古賀地区の歴史

 古賀地区は、長崎街道沿いにある長崎市の北東部にあり、いわば長崎の玄関口である。周りを井樋尾岳、船石岳、行仙岳、正念の津屋岳などの山に囲まれたいわば盆地である。

  古賀は、奈良時代以降、肥前国高来郡に属した。古賀の地名は、戦国時代の末 期にはすでに見える地名で、当時は有馬領であったが、後に大村領となった。ル イス・フロイスは、文禄2年(1593年)に、「これらの地の全住民は、大村純忠の 臣下のキリシタンたちで、(略)」と報告している。しかし、その後再び有馬領と なり、西古賀村と呼ばれたが、寛文8年(1688年)以降は天領とされた。安政4年 (1857年)幕府は外国人居留地を造成するため、大村藩領の戸町村大浦郷と古賀村 の木場郷と中里郷を交換した。同村の石高は822石余で 天領分は347石余、 大村藩領は448石余であったが、天領分は、明治元年に長崎府、同2年に長崎 県となり、大村藩領分は、明治元年に大村県、同4年に長崎県となった。昭和30年2月11日、矢上、戸石、古賀の合併、東長崎町誕生、同38年4月20日に長崎市に編入合併された。(長崎の史跡から引用)

    古賀町は、その中央を国道34号が貫き、長崎市内まで約30分、諌早市まで 30分の距離である。交通は、JR、高速道路、国道が有り交通の要となっている。

 町は、古賀町、中里町、船石町、松原町の旧町につつじが丘町、鶴の尾町等造 成された団地に住む人たちで形成されている。

(以前は、上床、松原、向里、正 念、底内、平古場、二双舟、中河内、上座、千束野の10部落があった。

古賀町の東西はおよそ5km、南北は2kmあまりで、以前は7割が山であった。明治時代は、ここに470数戸、2400人程度の村民が住んでいた。

 気候は温暖であり、蛍が飛び交い植木が盛んな町である。古賀村は室町時代か らの歴史があるが、文献となるものは少ないが、小学校が出来たのは明治8年で ある。

 植木が盛んになったのは、松原地区に和三次と常次という人がいて、松の苗木や接ぎ木の研究をしてからであると伝えられている>郵便制度が明治6年に始まり古賀村には矢上から来て配達していたが、古賀に郵便局が出来たのは、昭和3年に古賀郵便取扱所というのか出来て以来であり、現在地付近にあったようだ。

 村の時代には、村会議員が12名いたようで、村の政治を行っていた。

 明治維新までは、公領(天領)として治められていた。豊臣時代は、島原の有馬 公の領地で、キリスト教が栄えた時代もあった。徳川時代にはいり、寛文9年に は長崎代官の支配に移された。安政年間には、外国人居留地を長崎に増設するに あたり、大村領戸町村の一部を居留地に充てられたため、古賀村一千石の中、4 50石は大村領となり、明治4年の廃藩置県まで続く。


⒉古賀地区の歴史年表(古賀村とその周辺地域の変遷と世界史)

      

1185年 壇ノ浦の合戦。平家落人の一部が古賀に流れ、山野を開墾し農業を営む傍ら、植木を集めて鑑賞したのが、古賀植木の祖となったと

   の話あり。
(1187年)  エルサレム王国の滅亡。1189年には第3回の十字軍遠征があり92年まで続く。中国では、1115年に金が中国北東部に建国し、25年に

   遼を滅亡させる。27年には宋が金の侵攻を受けて南都し南宋王朝が始まる。
1470年頃 古賀地区、有馬氏の武将西郷石見守(諫早市有喜町に居城)の支配下に入る。
(1480年) モスクワ大公国が独立する。1488年バーソロミュー・ディアスが喜望峰を発見する。92年にはコロンブスが新大陸を、98年にはバ

   スコ・ダ・ガマがインド航路を発見する。
1570年頃 長崎開港(1571年)。古賀地区が島原の有馬氏の領有となる。神社や仏閣が焼き払われ、キリスト教が栄える。
(1571年) スペイン人がフィリピン群島を占領し、マニラ市を作る。80年にスペインがポルトガルを占領する。81年オランダが独立宣言。

  83年ガリレオ・ガリレイが振り子の等時性を発見する。
1600年 古賀、内海、外海の3カ所にキリスト伝道所が建てられ、長崎に属する。古賀(諫早を含めて)には、5つの天主堂が建てられた。
(1600年) イギリスが東インド会社を設立。シェークスピアが『ベニスの商人』を出版。02年オランダが、04年フランスが東インド会社を設

  立する。植民地政策が進められる。09年ガリレオ・ガリレイが天体望遠鏡を発明し、ドイツのケプラーが天体の三法則を発見する。
1607年 教宗寺建立される。元は称念寺という呼称であった。
1612年 有馬氏が日向延岡へ転封され、古賀が天領となる。
1616年 松倉豊後守が島原地方を支配し、古賀もその支配下に入る。キリシタンが禁止され弾圧が始まる。
1626年 松倉豊後守、古賀村に神社・仏閣の再興を命じる。福瑞寺建立。
1627年 古賀でフランシスコ、その妻ヘレナ及びイエヌ斬首される。
1628年 八幡神社再建
1630年 島原で多数のキリシタンが拷問を受ける。古賀のミカエル(80歳)、ゴンサロ孫右衛門、ヨハネ孫助処刑。奉献士ミカエル・タエモン

  (古賀の出身者)も長崎の近くで処刑される。
1637年 島原の乱が発生。キリシタン蜂起。島原領主2代目松倉氏は途中で処刑され、代わって高力氏が領主となる。
1667年 高力氏除封。古賀は再び天領となり、長崎代官の支配下に入る。
1669年 中国商人許登綬、滝の観音に観音堂を寄進する。境内の作庭は又作が手がける。以来中国商人と滝の観音、古賀植木の縁が深まる。
1680年  小川家6代目喜左衛門が古賀人形を作り始める。同家は元大村藩士で、藤棚は同藩の休息所とされ、藤棚も古くから造られていた。
1689年 松原町の赤瀬邦彦氏宅の庭園に残る羅漢槇が中国浙江省から移植される。樹齢は600年とされる。
1690年 古賀松原名西山の徳右衛門が農家の副業として、植木や盆栽の栽培を奨励し、植木業の基礎を築く。

1720年 享保5年、島原藩預かり所となる。
1735年 正覚寺、霊源院(滝の観音)建立される。

1749年 藩主が松平から戸田へ変わる。
1785年 古賀人形が作り始められる。
1810年 古賀松原名西山の和三次(徳右衛門の子孫)と横手の常次が現れ、曲松、実生五葉松、姫小松、霧島ツツジなど中国人向けの樹種の繁殖

   に力を注ぎ、古賀の植木は次第に発展する。また築山師の始祖といわれる田中信右衛門も現れ作庭を始める。
1830年 古賀に「植木仲間」が結成され、植木の乱売を防ぎ、仲間同士の技術向上を図る。また植木の中国、オランダへの海外輸出も始まる。
1831年 古賀の人、赤瀬勘助重金福瑞寺鉋鐘堂を建立
1854年 八郎橋架橋(石柱24本)。古賀上床の千代女澱粉をつくことを始める。
1858年 長崎外国人居留地拡張のため、大村領戸町村と幕府領古賀村を交換したため、古賀村のうち木場名と中里名が大村藩領となる。
1870年 現在の藤棚は家屋とともに再現された。
1871年 廃藩置県。古賀村は長崎県管轄となる。
1873年 恵比寿神社が向札元から松原名西山へ移され、植木仲間の守護神となる。古賀、五穀神社、向名、城山山頂に建立。
    日見、矢上、古賀、喜々津、大草の五か村が合併する。
1875年 古賀小学校創立。(2学級40名)
1877年 各郡に郡役所が置かれる。古賀は北高来郡古賀村となる。
1878年 日見峠より諫早までの国道開通。古賀村、戸長制度で戸長を置く。
1880年 古賀消防組、田島消防組創立。(田島倉治氏寄贈)
1885年 西山徳兵衛の子、松田嘉平がロシアのウラジオストック、ハバロフスクへ渡航し、ロシア皇帝の歓迎を受け、シベリアへの植木輸出

             の端緒を開く。ロシア語、中国語、英語の三カ国語を話す古賀の植木商人が海外へ進出する。
1886年 古賀尋常小学校と改称される。(修業年限4年、児童数140名、4学級)
1889年 町村制実施。古賀村初代村長に田中光太郎が就任する。古賀村巡査駐在所創設。
1891年 古賀小学校、役場火災に遭う。
1892年 木造瓦葺き2階建て役場庁舎を中里名轟に再築する。古賀村農談会創立。
1898年 九州鉄道(長崎~長与間の鉄道開通)、(早岐~武雄、佐世保線開通)。

    古賀村淑女会(後の女子青年団)創立、古賀村青年会(後の青年団)創立。
1901年 向山に新校舎落成移転。(古賀小学校)
1902年 産業合名会社創立。古賀は苗代を短冊型とし定規植えが始まる。堆肥舎が造られた。
1903年 植木の奨励。各部落ごとに原野に松や杉などを植え付ける。
1904年 日露戦争。ロシアへの植木輸出が中断され、業者は大打撃を受ける。
1905年 (明治38年)九州鉄道長崎線開通。中国への植木輸出が活発化する。
1906年 古賀村教育会創立。古賀村学友会結成。
1907年 長崎で開催された第二回関西九州各県連合農水産共進会に、古賀の植木と盆栽が出品され名声を博す。古賀園芸組合結成。

     初代組合長に松田嘉平氏が就任する。
1908年 義務教育6カ年となる。小学校が県知事より表彰される。実業補修課創立。古賀農業実業を小学校に附設する。
1909年 古賀小学校が優良学校として文部大臣から表彰を受ける。産業組合創立。
1911年 (明治44年)古賀村教育会主宰の生産品展覧会始まる。
1913年 (大正2年)衆議院議員選挙(有権者総数61名、投票者58名)
1914年 第一次世界大戦。軍需景気で造園ブームに湧く。向名字館に庁舎を新築する。(前古賀地区事務所)
1915年 (大正4年)電灯が点く。
1919年 農業改良実業組合設立。
1921年 古賀村図書館創立。
1923年 農村会(農談会を改称)創立。
1924年 産業組合解散 長ピストン式消防器2号、3号を購入。
1925年 (大正14年)古賀村苗木生産組合誕生。初代組合長に山川常蔵氏が就任。
    古賀小学校の改築。
1926年 (昭和元年)日見トンネル開通。古賀村植木園芸組合結成。初代組合長に久保田其吉氏が就任。
1927年 古賀村竹細工組合結成。
1928年 古賀郵便取扱所設置。
1929年 福瑞寺農繁期託児所創設。
1931年 国道25号線開通。
1933年 古賀村産業組合再設。
1934年 長崎県営バス開通。長崎日日新聞社主催の県下特産品任期投票で古賀植木が優勝する。満州国皇帝に古賀植木を献上する。
1935年 古賀植木創業記念碑建立。
1937年 古賀にハイキングコースが設けられる。植木、盆栽の即売も開かれ、人気が高まる。古賀に炭鉱が始まる。
1938年 青年倶楽部、村内13カ所に完成する。
1939年 日本全土に統制令が発令される。古賀植木の輸出は「九州西部園芸輸出協会」の統制下に入る。
                国民健康保険組合結成される。
1940年 植木の病害虫駆除のため、古賀に蒸室、荷造所がつくられる。
1941年 大東亜戦争始まる。
1942年 中国への植木輸出が完全に停止される。
1944年 古賀炭鉱閉鎖。福瑞寺釣鐘徴発される。
1945年 終戦。
1946年 戸石、矢上、古賀、田結4カ村組合塩田を戸石に構築する。(1949年大蔵省より閉鎖命令)
1947年 新制古賀中学校創立。
1949年 県立諫早農高古賀分校(その後、東長崎分校に改称)できる。古賀警察官駐在所設置される。
1951年 田畑の植木生産への転用許可が出る。
1952年 古賀植木園芸組合の再強化をはかり、組合員70人を越える。
    福瑞寺釣鐘設置される。
1955年 古賀・矢上・戸石の三村が合併して東長崎町となる。初代町長は松永繁一氏
    町長選挙、町議会議員選挙、町教育委員選挙が施行される。
    古賀村殉国慰霊塔建設。
1958年   古賀植木祭り(5月初旬)スタート
    古賀上座線災害道路起工式、間の瀬バス乗り入れ。古賀中学校が、東長崎中学校として統合。
1960年   古賀植木が栽培面積40㌶を越える。
1961年   車検場落成式。古賀簡易水道落成。テレビ共聴施設組合創立。かき道橋竣工。下田浦線農道完成。古賀簡易水道完成。

1962年 木場生産森林組合
1963年 東長崎町、長崎市に編入される。(昭和38年)
1964年 古賀植木園芸組合、法人に改組される。
1968年 木場浮立保存会結成。
1971年 (昭和46年)つつじヶ丘団地造成。

1972年 古賀植木園芸組合創立47年となる。
1973年 10月2日、国鉄長崎新線開業(市布経由)

1976年 諫早農高全日課程へ移行する。
1982年 (昭和57年)富士団地造成。
1994年 (平成6年4月)諫早農業東長崎分校の生徒募集停止、西陵高校東長崎分校(普通科)として生徒募集開始。
               12月1日肥前古賀駅営業開始(業務委託化)
1996年 (平成8年3月2日)諫早農業高校東長崎分校閉校、西陵高校東長崎分校(普通科)となる。

2007年 平成19年3月西陵高校長崎分校廃止。58年間の学び舎として歴史を閉じる。同10月古賀地区市民センター開所。 


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